2014年4月4日金曜日


僕をプロレスという世界へ誘うきっかけを与えてくれたゲーム『ファイヤープロレスリング』(以下ファイプロ)の生みの親である増田雅人さんが48歳の若さでこの世を去ったというニュースをツイッターのタイムラインで知る。

小学生高学年当時、ゲームに夢中だった僕は“クソゲー”という概念(後にみうらじゅんが名付け親だと知り、そのネーミングセンスの素晴らしさを認識を改めたのは言うまでもない)を知り、自分なりのクソゲーをゲーム屋のワゴンセールでDigる=発掘するのを“マイブーム”(これもみうらじゅんが提唱しだしたフレーズ)としていた。スーパーファミコン版の第一作『スーパーファイヤープロレスリング』もそんな網に引っかかった一本だったと思われる。
スポーツに対して、スイミングスクールに通わされていたぐらいしか接点のなかった僕にとって、プロレスなるものは全くもって未知数な存在だった。アクションゲーム的な人間離れした動きや連打ではなく、組んでタイミングよく投げるというシステムには最初戸惑ったが、次第に慣れていき、タイガー・ジェット・シンをモデルにした悪役レスラー、マッド・タイガーの噛み付きや火炎攻撃、金的といった反則や、グレート司馬というジャイアント馬場さんをモデルにしたレスラーを操作して、それがやけに可笑しく、自分の中での定義も曖昧だったのに「クソゲー!」「クソゲー!」とゲラゲラ笑いながら遊びはじめたのだが、気がつけば夜中までぶっ続けて遊んでいた自分がいた。そしておそらく気づいたはずだ。「これ…クソゲーじゃないじゃん…」。

そして、こんなにも魅了してやまないプロレスってどんなものなんだろうと自然と興味をもつのにそう時間はかからなかった筈である。当時はすでにプロレス中継も夜中に移っていた時間帯だったと記憶しているが、テレビ朝日系列で放送していた新日本プロレスの中継番組『ワールドプロレスリング』に衝撃を受けた。WAR対平成維震軍の対抗戦だったと思うが、大男たちの激しい戦い、技の応酬、そして流血戦にあ然としながらも釘付けになった。それからなるべく毎週欠かさず日テレ系列の『全日本プロレス中継』の方もチェックしながらも、“明るく、楽しく、そして激しい”をモットーにしていた、アットホームな全日本プロレスよりも、東京ドーム大会などビッグマッチでの派手な演出や、団体対抗戦といった話題性、武藤敬司などの華のある選手など、完全に新日本プロレス派だった。本屋に行き、『週刊プロレス』、『週刊ゴング』の両紙を毎週買うようになるのもそう時間はかからなかった。

だが初観戦までは、まだ子供ということもあってか、なかなか時間がかかり、中学二年生の頃に父親を説得して一緒にいったFMWで、当時、住んでいた福岡の通称“西の聖地”と呼ばれる博多スターレーン大会だった。生の迫力として真っ先に来るのが、投げた時にズドンと来る重低音。ロープワークでロープの軋む音や、選手の生の息づかいや、汗。応援してたエースのハヤブサが、Xとして登場した悪役レスラーのミスター・ポーゴ(でも本当は人間的にすごく優しいというこを後に吉田豪の話で知る)の鎖鎌で流血させられた上に負けたのがショックでもあった。

青春時代はプロレスとともにあったと言っても過言ではない毎年のように出る『ファイプロ』の新作を購入し、ハードが変われば、ファイプロのために本体まで買うような熱心な信心にも似たファン心理であった。度々、引退を匂わせるタイトルを銘打ち、ファンをやきもきさせるが、数年後には何食わぬ顔で復帰作を出してきた『ファイプロ』シリーズではあるが、2005年にプレイステーション2で出た『ファイプロ・リターンズ』を最後に事実上続編が出てないのが残念でならない。僕のプレイステーションも2で止まったままだ。生みの親である増田さんを追悼する意味でも久しぶりに引っ張りだそうかなと思う。取り留めのない文章になったけれど、プロレスという人生に彩りを与えてくれる存在を知るきっかけになった増田雅人さんへのささやかな追悼の意を評します。ありがとうございました。そして、願わくばファイプロシリーズの復活をどこかで期待しております。

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